巻17(3,927〜4,031)は、いわゆる越中在任の初期であった。
■彼の任地は富山四郡(射水・砺波・婦負・新川)と 能登四郡(珠洲・鳳至・能登・羽咋)であった。主な任務は、
である。とにかく、自分の任地を把握しなければ、とあちこちを巡る。 見るもの聞くもの、全てが新鮮に写り、 主に呉西域(氷見〜大門など)がお気に入りであった。
■万葉集(全29巻・4,516首)の内、家持は約480首の歌を詠んでいるが、 その半数(223〜224首)が越中在任中の作と言う。 とりわけ、富山四郡(95首)の内、氷見(射水郡)の歌(32首)が多かった。
家持の館にて。
■着任早々の歓迎宴席で、さんざん風光明美を聞かされたので、一首。 しかし、家持の館から雨晴までは、 馬を並べて行く程の距離では無い。 (氷見人は、500メートル先でも車で行くが。) もう酒宴が進み日暮れとなったので、時間が迫った関係で馬を利用せざるを得ないのか。 はたまた満潮だったので、岩崎鼻の山越えコースが辛いと思ったのか。
■それにしても飲酒運転(運馬?)、今のご時世ならお役所はクビ。 従って、歌を詠んでガマンするか。
家持の館にて。
■と思う鈍感な酔客に対し、もう遅いから帰って欲しいと思う廻りの気持ち。
さてさて、酔っ払いには困ったものだ。この逆だと奥ゆかしいのだが。
「酒もまだ有るし、ゆっくりしていかれ。」「沢山沢山、充分よばれました。」と。
済みません、こんな解釈になって。
旧暦8月7日の月の入は、午後9時と言う。
そんな夜更けに、西側に二上山の月を見る場所は限られている。
■最近(平成13年2月26日)、三ヶ月(月齢3)を見て思った。
「夜は更けぬらし」を「夕暮れ」だと解釈すれば、
高度は高いにしろ、そう見えなくとも限らない、と思った。
次の日(月齢4)に、いつもの通勤コースから変えて、
伏木回りで、月を見続ける(18:00〜18:30)ことにした。
月の高度が高いので、二上山の麓であれば、
そう見えなくとも限らない、と思ったからである。
子供でも知っている二上山とは何処だろう。
城山(258.9M)・大師ヶ岳(253.6M)・摩頂山(251.0M)、
はたまた「万葉ライン」の鉢伏山(179.2M)なのか。
「月」とか「有明」とか出てくると、どうも地理とか方角が気になる。
当地では、月・太陽は東・南・西にしか見えない。
■史生(しよう)とは、家持の部下で記録を司る役、任期6年。 玉櫛笥(たまくしげ:浦島太郎の玉手箱みたいなもの。)、 容器の蓋と二上の「ふた」にかけている。
秦八千嶋の館にて。
■奈呉の海とは「新湊海岸」を言う。
平成の大合併の今なら「射水海岸」かな。
今回は、家持を初めて自宅に招いたので、やや緊張している。
(私だって、娘の嫁ぎ先の婿さん、家族には気を使ってしまう。)
当時、奈呉には3,000人程の漁師がいたらしい。
■大目(だいさかん)とは、家持の部下で国司の四等官との事。
弟の死を知る。
■弟とは大伴書持らしい。ショックだったと思う。
■有磯(ありそ)は荒磯だったのか。では、雨晴・阿尾が相応しい。 現在の島尾・窪海岸は砂浜だから。私の家も当時は砂州(さす)の上だったのであろう。
■話は違うが、当時の家持は現在の私の家の前を通り、雀森の 八幡神社 へ参詣したのに違いない、と信じている。 近所の「むらかみばし」には家持の「鎮め森」伝説に因んだレリーフが施してある。
■掾大伴宿禰池主に対する返歌。このときの家持は調子が悪く、床に伏せっていたらしい。
■二上青少年の家に副碑が有る。
二上山の歌。
■慣れない北陸の寒さか、弟の死が祟ったのか、病状だった家持も、 この当たりから回復したようだ。内容に明るさが感じられる。
■小矢部川。今こそ庄川とは別々に流れているが、 明治33年から大正元年にかけ、200万の人工を掛け分流させたと言う。 従って当時は、現在より川幅が広く、水量も豊富だったと思う。
■高岡市の万葉歴史館に歌碑が有る。
■何だかセンチな人ですね。
■渋谷の地名は住宅地図を見ていると、 太田・雨晴のあちこちにズタズタになって飛地となっている。 何ででしょうか、元は広域圏だったと思うのですが。
二上山を思い出して。
■当地では有名な歌。
■でも恥ずかしながら、私はホトトギスは良く知らない。
「てっ辺禿げたか」とか「特許許可局」とか鳴くらしい。
臼ヶ峰
では、「東京東京、特許許可局」と聞こえた。
この話を同僚にしたところ、
ウグイスだって最初から「ホー、ホケキョ」とは鳴かないと言う。
■万葉小学校・ 古府小学校・ 二上山の像碑・ 郷土資料館に、この歌碑が有る。
夜中に、ホトトギスを聞いた。
■よっぽこの人、ホトトギスが好きなのですね。
■ホトトギスの声は、自分が足を運べば5月からでも聞こえる。 家持さんの自宅からでは、ちょっと遅れたかな。
■小鳥の鳴き声は、夜中には余り聞いたことが無い。 そして、ホトトギスは自分では、子育てをしないらしい。 だから、家持さんの聞いたホトトギスは、よっぽど遊び人なのか。
八千嶋の館にて。
■どうやら、家持さんは5月2日以後、一旦、都へ戻るらしい。
■新湊市に
放生津八幡宮という神社が有って、
家持が「九州から持って来た分霊」を祭っているそうだ。
10月1日〜2日には大祭が有り、1日は曳山祭り、2日に本祭が行われ、
新湊市を挙げての大行事となる。
十二町潟へ、遊びに行った。(ここは古江村に有る。)
■宇波川とは何処だろうか。 当時の宇波は、日帰りコースでは遠すぎるし、阿尾の難所がある。 現在の上庄川なら納得できる。そこも当時は湖だったらしい。 この上庄川と仏生寺川の下流の湊川は、当時は合流しており、 氷見の江(湊川)と呼ばれていたらしい。 最近この名にちなんで、ユニークなデザインの「氷見の江大橋」が建設された。
■布勢の水海の南西岸に古江村が有ったと言う。 古江新 と言う地名や、私が世話をしている 古江神社は、これにあやかったらしい。
■氷見市海浜植物園に、この長歌を紹介した 史蹟が有る。 また、水郷公園にも 史蹟・副碑が有る。
そこで、一首。
■万尾川・仏生寺川は元々、海水が混ざり合う汽水(きすい)で有る。 この流れを制御するため、昔の人は 窪の新川を造り、湊川と分流させた。
■近年には、私の近所に十二町潟排水機場 が施設され、この歌碑が有る。また、 水郷公園にも史蹟・副碑が有る。
■近くの日宮神社にも最近、立派な歌碑を見付けた。
また、十二町潟へ遊びに行った。
■内容がだんだんリアルになってきましたね。 この後「垂姫(たるひめ)の崎」の歌が出てきて、家持もだんだん土地に詳しくなってくる。
■乎布(をふ)の崎は乎布の浦に通ずる、と思う。 「をふのうら」から「おおのうら」に、現在の大浦・耳浦のイメージがつながる。
■銘酒「藤波」は近所の池淵酒店で売っている。 どう言う訳か上撰より2級の方が美味い。(全国の酒造コンテストで4位の誉れ。) しかし、最近は儲かっていないらしい。やや高いからか。
■先の家持の歌に同感している。
■掾(じょう)とは国司の三等官。家持に仕える真面目な部下らしい。
立山の歌(この立山は新川郡にある。)
■ご存知「立山の賦」パートT。
■万葉歴史博物館の 屋上自然公園に、 万葉仮名の歌碑と書下しの副碑が有る。
■運がよければ、富山県のどこからでも立山が見える。
しかし、氷見ではそれが海越しに見えるので、もっと神々しい気持ちになる。
本当か嘘かは知らないが、海越しに3,000M級の山が見える所は、世界で3ヶ所しか無いと言う。
■「とこなつ」とは、ハワイの事では無い。 まるで夏のような天候が続いた、と考えたい。 氷見では、特に2〜5月頃にチャンスが多いが。
■そう言えば、高岡の老舗に「銘菓とこなつ」が有ったっけ。
私の近所の浜に、この
木碑が有る。
立山の歌
■ご存知「立山の賦」パートU。
■前回の巻17-4000より、こっちの方を歌碑にすれば良かったのに。 私は「富山県民の歌」や「氷見市民憲章」のルーツだと思っている。
■「立山の 空にそびゆる 雄々しさに 習えとぞ思う 御代の姿も」とは、 かつての昭和天皇が富山県に賜わった御歌である。
呼ばれて一旦、都に戻る事になった。
■サラリーマンだったら、久々の本社への出張は、楽しい筈なのに。 二上山の別称で二波(ふたなみ)がある。 頂高273(ふたなみ)メートルと言う、地元では定番の冗談。
■私は毎日この二上山を見て通勤しているが、 山が二つ連なっているから二上山とは信じ難い。 城山と鉢伏山が連なって、二上山に見える典型的なポイント (巻17-3955)はそう多くは無いと思う。
■二上山の万葉植物園に この冒頭部分の歌碑が有る。
そこで、池主さんに。
■よっぽど、年上ながら部下の池主(大伴宿禰池主)さんとは、遠縁でもあり相性が合ったらしい。
■玉とか珠と言えば、王様が持つ石の装飾品である。
中国では、黄河文明以前の長江(揚子江)文明から用いられ、
どうして孔をあけたか、現在でも謎とされているらしい。
すぐ奈良に行かなければならない。
しかし旅はお互いの別れであり、心が痛むものだ。
そこで一首と二絶。
■「砺波山」とは今の倶利伽羅峠であり、上京の際の交通の難所でした。 通過すべき「手向けの神」に捧げ物をすれば、旅人を守ってくれる神々らしいのです。
■そんなに無理をしなくても、氷見から臼ヶ峰越えなら、と思うのですが。 国司ともなれば、コース選びにも見栄が必要なのですね。
■玉鉾(たまぼこ)とは、道・里の枕詞らしい。
■道の神、ご存知の天狗さん「猿田彦神」らしい。柳田にも手向(たむけ)神社が有る。
■巻17-4008〜巻17-4010も池主さんを称える歌となっている。 この後、家持さんは税帳使として京に向かったらしく、 歌も数ヶ月近くの空白が出来てしまいました。
■その間に池主さんも、越中掾(じょう)から越前掾に遷任されたらしいのでした。 (守→介→掾→目→史生→国掌)
逃げた鷹の、夢を見た。
■鷹の飛んでいたコースから推定すると、私の家の上も飛んでいたに違いない。
■鄙(ひな)、難しい漢字ですが、 氷見弁で「あんな辺鄙(へんぴ)なとこ」と言えば猿でも分かる。 五鄙(漢字源より)で県となり、現在の郡に相当する。 当時は射水郡・砺波郡・婦負郡・新川郡ぐらいだったのでしょうね。 ちなみに当時の氷見では、鯯(つなし)(コノシロ、コハダ)漁が行われていたと想像されます。
■氷見市海浜植物園や 道の駅・海鮮館に、 この長歌を紹介した史蹟が有る。 また、 水郷公園にも、史蹟・副碑が有る。
そこで短歌
■三嶋野とは何処だろう。 勝手に解釈し、小矢部川と庄川が入り組んでいた氾濫原の大門とした。
■やがて家持のお気に入りとなり、 巻18-4079では思い出となってしまう。
■巻17-4011の歌から、解説は不要でしょう。
■山田の爺さんとは、山田史君麻呂(やまだのふびときみまろ)らしい。
■耄碌(も〜ろく)は、氷見弁と思っていました。
■「須加の山」は「すか」を導く枕詞。「すかなし」は心楽しまないの意という。
■「須加の」は高岡市佐加野(さがの)に通じないだろうか。
と、思っていたところ、
東大寺墾田須加野庄の石碑が有った。
■「あいの風」とは冬季に海から陸に向かう風、従って波が荒いと言う表現そのもの。
これに雷が加われば例の「ブリ起こし」である。
富山湾は鰤漁で活気づくのだ。
「あゆのかぜ」を東風と表現するとは、学者さんの感覚と思う。
なぜなら、氷見は東の風、伏木は北東の風、新湊は北の風なのに。
家持さんは、氷見びいき・氷見かぶれらしい。
ちなみに、「あいの風」の反対を「だしの風」と言う。
夏場の穏やかな海は、ブリを富山湾から追い出すのである。
■奈呉の海は現在の新湊海岸か。 はたまた、奈呉の江は放生津潟(ほうじょうずがた)か。新湊市の 放生津八幡宮 に、この歌碑が有る。
■近年は、中古自動車を求めるロシア人がたむろしており、 ロシア語の看板が目立ったものだ。ちなみに私の前勤務先では、 「ここは中古車展示場では、有りません。従業員の駐車場です。」 と、ロシア語の標識が立てられていました。 しかし、現在はロシア関税の影響なのだろう、廃業が目立っている。
■私の近所では鶴こそ見かけませんが、 今でも白鷺や白鳥が飛来してきます。 それにしても白鳥は、直近で見ると、さすがに大きいですね。
■最近では、稲の刈り取りが終わった後、 白鳥の保護のため、田圃を焼いたり「暮れ起こし」を自粛しています。
庄川の辺にて。
■中田の「いきものの里公園」で、県の天然記念物として保護されている「葦附」を撮影する事が出来た。 昔は大門町西広上などと共に、広い範囲で自生していたという。
■最近、利賀村でも大量に群生している事が分かったと言う。
■中田(高岡)のあしつき公園に歌碑が有る。
気多大社に行く時、途中の千里浜にて。
■おいおい、ここは湖では無く、海ですよ。
■志雄路越えは、古くからの街道。 粟原の駒繋桜 まで舟で行き、小久米・床鍋から臼ヶ峰を越え、志雄に向かったと言う。
■頂上には「太子堂」が有り、「親鸞上人」の銅像への登り口の右に 歌碑が有る。 何度もキャンプやバーベキューに行っているが、気が付かなかった。