巻19(4,139〜4,292)は、思い出多い越中との別かれ。
■家持が理想とする美の世界へと進み、優れた作品が連発する。 文芸意識が最も高揚した時期であった。 やがて、小納言として順調に昇進した家持は、 大帳使を兼ね、一旦、奈良へ戻ることになる。 しかし、帰り着くと、 橘諸兄(たちばなのもろえ)が昔日の力を無くした現実を知る。 越中滞在五年間のうち、都の様子は大きく変わったのである。
■当時、婚姻関係を結びながらも、互いのライバルであった蘇我・物部の二氏であったが、 新しく仏像を賜り熱心に礼拝した蘇我氏と、 昔からの神祇崇拝を重んじてきた物部氏とは、 お互いに思想が相容れ無いため、有名な蘇我・物部戦争へと発展する。 NHK風に言えば「その時、歴史は動いた。」のである。 仏教派の聖徳太子は勝ち組、神道派の大伴氏は負け組となってしまった。 そして、大伴氏はキャリア組から外れてしまう。
桃李(すもも)の花を眺めて作った。
■すもももももももものうち。
李の花は桜の様に白っぽいので、紅(くれない)と言えば桃の花か。
梅や桃の花は桜より早く咲く。当地では、この時期は桜も散っている。
従って、山添の、かなり遅咲きの桃とみた。
■暗い気持ちでは、こんな絵になる様な歌は作れない。
家持さん、よほど機嫌が良かったのかも。
伏木小学校や
光暁寺に、この歌碑がある。
黛(まゆずみ)形の柳を折って見た。
■高岡の新保氏宅に歌碑が有る。
かたかごの花を、よぢ昇って採った。
■国分(こくぶ)という地名が有るが、 国分寺(天平勝宝8年12月:756年)は大分、後だろう。 当時の寺といえば、国府寺か。 家持の官舎は伏木古国府 474番地( 伏木測候所)。 役所は、伏木古国府 770番地( 勝興寺)。 寺井は、ご存知「ふるこはん」(浄土真宗)の境内外れ。
■当地では有名な歌。
勝興寺・
伏木小学校・
JR高岡駅前・
二上青少年の家
に、この歌碑・副碑が有る。
私も、かたかごの花を栽培してみたが、冬が越せず何年も失敗している。
誰か教えて下さい。
■普段、何気無く使っていますが、攀(よ)ぢるとは難しい漢字ですね。
夜中に、千鳥の鳴く声を聞いた。
■昔は水辺に集まる多くの鳥を総称して、千鳥といっていたようだ。
立てばパチンコ、座れば麻雀、歩く姿は千鳥足。
■高岡の新保氏宅に歌碑が有る。
朝早く、船人の唄が聞こえた。
■唄とは民謡との事。 唄とは、歌と違って仏教用語から来たものらしい。 「正信偈」の偈であり、リズムに合わせて唱えるものらしい。
■伏木測候所の史跡の裏や 能町小学校に、この歌が刻まれている。
家持の館で宴会した時の歌
■当地の山桜は、公園の「吉野桜」より約1〜2週間遅れての満開となる。 家持さんは二上山の頂上付近において、かねてより目ぼしを立てていたに違いない。 丁度、上手い具合に間に合ったので、酒の肴となったのだろう。
■最近、高岡市の万葉歴史館に、この歌碑を見付けた。
白い大鷹を詠んだ。
■石瀬(いわせ)とは、小矢部川と庄川の氾濫原だろうか。
(巻19-4249)
また、大門の三島も氾濫原と信じたい。
■富山市の岩瀬(いわせ)は海岸の近くであり、萩がイメージできない。 また、遠すぎる。神通川は馬で渡れたのか、と思ってしまう。
■毎日、国道8号で氷見から新湊へ通勤しているが、 石瀬(いしぜ)から高新大橋にかけては、何時も混んでいる。 どうにかならないものか。
■家持は余り地元の人と交際が無かったのでしょうか。 この手の話しは、何度も聞いた。
鵜(う)を潜らせた。
■辟田川とはどこだろう、諸説ぷんぷん。私は現在の泉川と思う。
辟田(さきだ)から西田(さいだ)が連想できる。
当時は二上山からの水が西田川として、西田・宮田と流れていたのではないか。
氷見の地形から見ると、急流の部類である。現在ではその面影は無いが。
(地図参照:右下部分に注目して下さい。)
■その後、その豊富な水を利用するため、溜池として堰き止め水田に供給したのでは。 現在の地図を見ると溜池が沢山、連なっているのでそう思った。 また、この近くの地名には、「田」が多い。 西田(斎田)・上田子・下田子・宮田・堀田・柳田・太田など。
■辟(ヘキ・さける)とは、君主の他、避と同意らしい。 でも、辟田は「田圃を開く」と解釈すると、個人的に納得できる。
■赤い衣とは、これこそ「はいから」さんですね
■眷(ケン・かえりみる)とは、見かけない漢字ですね。
■私の母校の西條中学校の横に、この泉川が流れていた。 小川のわりには、当時の水はきれいだった。 この歌は、もっと上流であろう。
貸付けの取調べのため、古江に行こうとした途中、
雨晴を過ぎた所の岩に、つままの木を見た。
■都万麻(つまま)は氷見の
博物館
の前にも有り、氷見では
あちこち
に生えており、椿・ユリ等と共に氷見市の指定植物となっている。
田子浦藤波神社
にも都万麻の巨木が二本、有るらしい。
■ 雨晴観光駐車場・ 岩崎つまま公園・ 二上青少年の家に歌碑・副碑が有る。
十二町潟に行った。
■垂姫とはどこだろう、勝手に「耳浦」とした。 氷見には垂姫神社が有るが、単に名前を借用したらしい。
■近所に池淵酒店が有るが、清酒「藤波」の二級酒が美味しい。
■二上青少年の家に副碑が有る。
霍公鳥と藤の花を詠んだ。
■冒頭から「真澄鏡」までは、「二上山」にかかる序詞らしい。
■巻17-3955では玉櫛笥(たまくしげ:玉手箱みたいなもの。)の「蓋」が「二上山」の枕詞になっていた。
そうと分かれば、
「鍋の蓋 二上山を 仰ぎつつ 行くとしようか 今日も会社に」と何でも良い?
■二上青少年の家に歌碑が有る。
■二上青少年の家の歌碑の側面に刻まれている。
十二町潟へ行った。 船を田子に停泊し、藤の花を眺めた。
■珠という氷見弁を知らないので、勝手に真珠にしてしまった。
■下田子の
田子浦藤波神社に、この
歌碑や
田子の藤が有る。
中の橋にも、この歌碑が有る。
■田子浦藤波神社 には、今でも藤の木があり、 田子の藤として有名です。
■掾(じょう)の 久米さんは、ここでは判官(じょう:中央の役職名)となっている。
■廬(ろ・いおり)は、丸い壷形の小屋。転じて粗末な小屋という。
ほととぎすの鳴声が、聞こえない。
■「東京、特許許可局」と鳴くらしい。でも私には「東京東京、特許許可局」と聞こえる。
朴木の葉を見て。歌二首。
■朴木の葉、柏餅(かしわもち)と言えば分かる。 でも、中国の柏と日本の柏は違うらしい。
■「国師・ 講師」は、東大寺派の僧侶で、華厳経などの普及のため、 任命された地方僧官だそうです。
■皇祖(すめろき)は、コップを知らなかったのかな。
■親戚の人が、魚または肉に味噌またはバターを加え、 この葉っぱでくるみ、自宅でバーベキューをした思い出が有る。
帰りに、浜の上に月の光を見た。
■氷見からの帰りである。月の方角も納得できる。
■高岡市の太田(おおた)小学校に、この 歌碑・副碑が有る。
■家持から、知らせてくれ、と頼まれたが、 自分も聞いていないと、返答したもの。
丹比(たじひ)の家に贈った。
■母の丹比郎女(たじひのいらつめ)と、 妹の留女之女郎(るめのいらつめ)に贈ったのだろうか。
漁師の漁り火を見て。
■鮪(しび)とは、マグロの成長過程の呼び名。地元では 「メジ」とも言う。「いざる」とは漁をする、と言う意味。 それにしても「竿で釣る」とか「網で獲る」のでは無く「ヤスで突く」とは豪快ですね。 今やマグロは、日本だけで無く中国でも人気だそうですが、 グルメの氷見人は、大昔から食べていたのですね。
■氷見の有磯高校 に、この歌碑が有る。 また、氷見の地酒に「曙」が有るが、この歌をモチーフにしている。
雪の日。
■薮柑子(ヤブコウジ)は、 橘とは全く別種の植物で、冬に赤い実をつけると言う。
■氷見の有磯高校 に、この歌碑が有る。
遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのをとめ)の歌。
■氷見市史4の付録「憲令要略」によると、雪の島とは「唐島」らしい。 蒲田(かわた)の娘ちゃん(私の想像)、なかなかやるじゃない。 遊行女婦土師に仕込まれたのか?
ほととぎすを詠んだ。
■太陽歴の5月19日と言う。 この人は何年もこの地に住んでいて、奈良との時差ボケが治っていない。
■私の通勤途上なので、範疇としました。 (巻19-4154)
■小鷹狩・初鳥狩(はつとがり)は秋の狩。 これに対し大鷹狩は冬の狩だそうです。
■高岡市の 野村小学校・ いわせの郵便局・ 向陵高校に歌碑が有る。
8月5日に、納税台帳の提出を兼ね、都へ戻る事になった。
その前日に、内蔵縄麿の館で、
役所の料理人に用意させ、送別会を行った。
■初夜(よひ)とは夜を三分した最初の時間、18:00〜22:00頃か。 新婚初夜では無く、宵(よい)らしい。
■家持の越中守在任は天平18年より勝宝3年まで満5年、 足かけ6年に及びました。
■私のページも、もう終わりが近づきましたね。
夜明けの午前四時頃、都への帰途についた。
国府の職員が、揃って見送ってくれた。途中、
加納の安努君広島の門前の林の中で、別れの宴を開いた。
■広島さんとは、どんな人だろう。
郡司とは、大領・少領・主政・主張の四等官で、終身とされている。
味川(碁石)出身で、加納(かんの)の大地主となり、
後に地方豪族として、この辺りを掌握した
伊弥豆国造(いみずのくにのみやつこ)の子孫なのだろうか。
■地元の有力な民間人を、上手に律令制度に組み入れる事が、
当時の仕事の一つだったと思う。
家持さんも、この人が無視できなかったし、世話になったと思う。
引継ぎ事項として、
能登臣乙美の本採用も提案したに違い無い。
■加納の 八幡神社 に、この 歌碑・副碑が有る。また、鞍川に 安努神社が有ると言う。 都への帰り道に因んだらしい。 とすると、いつもの政務の 粟原越え では無く、もう最後だから思い出の 日名田越え だったのか。 氷見人としては今更、定説の北陸道越えとは考えたく無い。
気が向いたので詠んだ。
■越中在任期では無いが、高岡の 新保氏宅に歌碑が有るので取り上げた。
■取り敢えず氷見弁で読む万葉集は、 以上でお終(しま)いです。 永らく、ご精読あり難うございました。今後とも、宜しくお願いします。
元旦拝賀式の後、答礼の宴で詠んだ。
■天平宝字2年(758年)旧暦7月、家持は因幡国守として赴任した。 その半年経った正月、この年は17年に一度の立春が重なった特別の元旦だったと言う。 しかも、新年の降雪は豊作を予兆する吉言・吉事(めでたい出来事)でした。
■この日、中央では寿詞、因幡国庁では拝賀の式が行われる。 「凡そ元日には、国司皆僚属(れうぞく)郡司等を率(ひき)ゐて、庁(ちやう)に向かひて朝拝(でうばい)せよ。 訖(をは)りなば長官賀受けよ。宴設(まう)くることは聴(ゆる)せ」(儀制令)。 この一首は、引き続き行われる宴において答礼として詠まれた。 それは「因幡の雪」を題材とした因幡国守として唯一の、そして万葉集の最後を飾る賀歌となった。
■ 立春。昔の中国では「一番寒い日を新年と定める」ということで、この日を新年としたそうです。 従って「暦の上では、春なのですが…」と言う表現は、ニュアンスがかなり違うのです。
■かの 因幡万葉歴史館の 中山和之さんの著によると、 因幡国庁跡近くに、 この歌碑が建立されているらしい。氷見では 有磯高校の校庭に、この歌碑が有ります。