私の近所では、新川・湊川の河川工事が何十年も続いている。
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はじめに
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窪の新川の由来と、
碑文の読み下し。
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偉人矢崎嘉十郎さんと、
書家僧蒙さんについて。
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窪の新川に架かる橋です。
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あとがき
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■私が小学生の頃、父母から聞いた話をもとに「窪の新川」の紙芝居を作ったことがあった。 そして、研究成果として教室で発表した思い出がある。
■大伴家持の頃から、ここには十二町潟を塞いでいた砂洲が有った。 風光明媚な布施の湖も、時として十三谷(じゅうさんだに)からの流水で潟は氾濫し、 農民にとっては稲の冠水、町方では家へ浸水などと、多くの人々が何百年も苦しめられていたのである。 河口は、比美の江(今の湊川)のみだった。 家持は、天候の良い日を選んで遊覧したので、そんな事とは知らずに、年貢を取り立てていたのだろうか。
■時は移り、江戸時代後期、ついに偉人が現れた。 十村役の作五郎さんと、それを助けた矢崎の嘉十郎さんである。 彼らは砂洲にクリチカルパスを掘った。このページは、その偉人逹の話である。| □ | これらの記事は、全て私の独断・偏見です。 |
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■窪の「新川橋」(仏生寺川右岸)に記念碑があり、 その碑文には、次のように書いてある。
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十二町潟は、昔から崩れや氾濫が続き、心配の種となっていました。
被害の受けない年は、無かったのですから。 そこで、射水郡の十村役である笠間作五郎さんは、 苦労して吐川を計画し、加賀藩の許可を受け、海まで貫通させました。 これが新川なのです。 この工事は、矢崎嘉十郎さんが監督し、陸田彦四郎さん・屋鋪太三郎さんが協力しました。 明治元年(1868年)8月に工事を始め、翌2年(1869年)8月に完成したのです。 川の長さは900メートル以上、川底の幅は18メートルでした。 工事には、現在の金額で15億円以上の費用がかかりました。 その内、加賀藩が60パーセントを受持ち、周りの14部落で40パーセントを負担しました。 嘉十郎さんは会計も担当しており、 僅かで貧しい田舎にも拘わらず、更に2000万円を寄付したのです。 お陰で、災害は再び起こらなくなったのでした。 (途中、省略。) 笠間さんや矢崎さんの偉業を称えましょう。 明治33年(1900年)5月 石川県の僧侶 蒙(きざし)が記録した。 |
□十村役(とむらやく)は、いわば北陸地方の大庄屋さん。
加賀藩から任命され、政治の手足となった。
慶長9年(1604年)前田年長により十村の制度が作られ、
いくつもの村落を束ね、年貢徴収のために農民の生産力向上などに努めたと言う。
□七萬五千餘金…総工費75,000余貫とは一体、幾らだろう。
江戸時代の幕末では、かけそば1杯が20文(現在の400円か?)だったとしたら、銅銭の1文は、現在の20円に換算できるだろう。
従って、1金(1貫・1000文:3.75kg)は約2万円となり、総工費は15億円以上となったのか?
| 経費総額 | 74,434貫716文 | |
| 内訳 | 藩丁補助額 | 42,259貫564文 |
| 関係村割当額 | 24,129貫231文 | |
| 矢崎嘉十郎寄附額 | 8,045貫921文 |
□人夫は延44,471人、その賃金は53,365貫200文と言う。 一人当たり約1貫200文とすると、平均で日給24,000円となる。バブル時代ならこんなものか。 現在の感じでは、一貫は約15,000円かも知れない。 そうすると総工費は約11億円に修正(?)しよう。
□現在、「新川」という名称は、どの地図にも出ていない。
二級河川「仏生寺川」の「清見橋」から海岸までの人工の川であり、運河でもある。
この事は、氷見でも近隣や年配者しか知らず、やがて死語になるだろう。
■碑額(碑額小篆体)
| 布施(ふせ)貫通(かんつう)碑(ひ) |
■碑文(楷書体)
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布施之湖(ふせのみずうみ…じゅうにちょうがたは)、 自レ古(こヨリ…むかしから)、 為レ患(わずらいトなス…しんぱいとなっていた)。二 潰決(かいけつト…くずれや)、氾濫(はんらんハ…あふれが)、一 無レ歳レ无レ之(こレなシとしハなシ…かならずおきていた)。 (そこで、)射水郡(いみずぐん)(の)十村役(とむらやく…しょうやである) 笠間作五郎(かさまさくごろう)(は)、 苦心(くしん…くろうして)、規畫(きかくシ…けいかくし)、 請レ藩(はんニこいシ…かがはんにおねがいすると)、 得レ允(いんヲえタ…こうじがゆるされました)。(そして、) 貫通(かんつうス…つながった)。二距レ海(うみヲきょシ…うみをへだて)、一 之(こレ…これがすなわち)、新川(しんかわ)也(なり…なのです)。 是役(こノやく…そのしごとは)、 矢崎嘉十郎(やざきかじゅうろう)、董レ之(これヲとうシ…かんとくし)、 輔(たすク…きょうりょくした)。二以(もっテ…そして)、 陸田彦四郎(むつだひこしろう)(や)、屋鋪太三郎(やしきたさぶろう)(が)一 明治元年(めいじがんねん…1868ねん)八月に起工(きこう…はじめられ)、 二年(1869ねん)八月(に)竣(しゅんス…かんせいした)。 為(なス…なった)。二 長貫(ちょうかん…ながさは)、五百餘間(ごひゃくよけん…900メートルいじょう)、 座濶(ざかつ…かわのひろさは)、十間(じゅっけんト…18メートルと)一 冠費(かんぴ…かかったひようは)、 七萬五千餘金(ななまんごせんよきん…15おくえんいじょうとなり)、 藩(はん…かがはんが)支(しス…しはらった)。二其六(そのろく…60%)は一 環湖(かんこ…まわりの)十四部(じゅうよんぶ…14ぶらくは)、 賦(ふサル…わりあてられた)。二其四(そのし…40%が)一 嘉十郎(かじゅうろう)(は)、司レ計(けいヲつかさどル……かいけいもまかされた)。 (しかし、)不レ幾(いくばくモなシ…よゆうはなかったのでした)。二 毫(ごう…わずかも)、又釐(またりニシテ…そしてほんのわずかも)、一 以(もっテ…なので)、二寒郷(かんごうヲ…まずしいいなか)、一 不勝(ふしょうナルモ…たえきれなかったが)、 重賦(じゅうふス…かさねてふたんした)。二 捐費(えんぴ…きふきんとして)千餘金(せんよきん…2000まんえんいじょうを)一 既而(すでニしかるニ…そしてそのために)、 無レ復(ふたたびなシ…にどとなかったのでした)。二災害(さいがい)(は)、一 灌漑(かんがい…そそいだみず)之(の)利滋(りじ…りえき)は多(おお)く、 菑*1(しハ…あれたとちも)、悆*2(よトナル…かいこんされた)。 歳(としニ…としごとに)増(ぞうス…ふえたのでした)。二 湖畔(こはん)(の)収穫(しゅうかく)(は)一 陪舊(ばいきゅう…むかしにくわえて)云レ興(こうトいウ…ふえたというのです。) 一利(いちりハ…りえきというものは)、 不レ如(しかズ…おなじことなのです)。除(じょニ…とりのぞくことと)、二 一害(いちがいヲ…ふぐあいを)一 今(いま…こんにちでは)、除レ害(がいヲじょス…さいがいをとりのぞいたのです)。 以(もっテ…おかげで)、興(おこス…おきた)。二利浹*3(りしょうヲ…うるおいが) 川(かわ)(は)距(きょシ…へだて)、二海濱(かいひんヲ…はまべを)一 畎*4(けん…みぞ)(は)二距(きょシ…へだて)、川(かわ)を一 今(いま)、導レ湖(こニどうス…みずうみにみちびいた)。 亦是也(またこれなり…おなじことである)。 然則(しかルニすなわチ…そうだとしたら)、 笠間(かさま)、矢崎(やざき)等之功(らのこう…たちのてがらは)、 甚偉(じんいナリ…はなはだえらい)矣(…ものだ)。 加(くわエ…くわえて)、 不(からズ…せずには)二以(も)って紀(き…きろく)一乎(や…いられない)。 明治三十三年(めいじ33ねん…1900ねん)五月 石川(いしかわ…いしかわけんの)僧蒙(そう・きざし…ぼうさんのきざしが)、 撰書(せんしょシ…ことばをえらび)、 并(へいシテ…あわせて)、篆額(てんがくス…てんしょであたまがきした)。 |
□注釈の漢字は、ブラウザによっては表示・印字されていないかも知れない。
| *1…し | →艸(くさかんむり)+巛(かわ)+田 |
| *2…よ | →余(かんむり)+田 |
| *3…しょう | →水(さんずい)+夫…辞典には無かった。 |
| *4…けん | →田(へん)+犬 |
□釐(り)は毫(ごう)の10分の1の重さという。
いかにも漢文らしい、大袈裟(小袈裟?)な表現ですね。
■台座(北魏摩崖風楷書体)
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記念(きねんノ)建碑(けんぴトシテ)、義捐(ぎえんノ…きふしゃの)記名(きめいハ)列左(れつさトス…ひだりのとおり)。 古江新(ふるえしん) 万尾(もお) 耳浦(みみうら) 川尻(かわしり) 十弐町(じんちょう) 中島新(なかじましん) 中谷内(なかやち) 西朴木(にしほおのき) 下久津呂(しもくずろ) 海津(かいず) 園(その) 潟中開(かたなかびらき) 窪(くぼ) |
□古江新は開墾地のため住人は無く、土地所有者は別の村に住んでいた。 加賀藩の開墾政策により、一つの村として組織されていたという。
□近隣では柳田の名が見えない。柳田・宮田には別の歴史が有るらしい。
■台座の左横書
| 大阪 新川 石商 太田傳吉 |
□漢字の部分のみが碑文です。
従って、ひらがな・カタカナ・送り点・記号は、解釈のため私が勝手に追記したものである。
碑文は風化が進んでおり、
文字は漢文調に加え、旧字体・異字体が混ざり、私にはさっぱり解らない。
また、全く漢文の素養が無いので、適当に解釈している。誰か教えて下さい。
□採集した碑文の内容(Word2000の文書)を紹介します。
ダウンロードには、ちょっと重いのですが。
ブラウザの種類やワードのバージョンによっては、化け字になっているかも知れないし、
プリンターの機種によっては、印字されない文字も有るでしょうね。
□碑文は苦労しながら自力で読み下したが、その後「氷見の先賢」第一集に解説を見つけた。
少しの部分で違っていたが、大意には変わりが無く安心している。面倒なので後日、訂正しようと思っています。
□台座の左横書にある石商とは、現在の
(株)太田石材店なのだろうか?
■清水武助(五代、矢崎嘉十郎)
1829年(文政2年)4月16日、十二町清水の清水家に生まれ、幼にして矢崎家に入った。
矢崎家は元々豪農であったが、当時の家運は順調ではなかった。
しかし、武助はこの養家を整え、やがて村政に参与し一郷の信望を集めた。
俗称、矢崎の旦那はん。
1904年(明治37年)3月25日逝去、享年85歳。
□文献:「氷見春秋」第 12号:辻七郎氏(窪)、「氷見の先賢」第一集
■北方心泉(きたがたしんせん)
僧侶、書家。「布施貫通碑」の書者。
1850年(嘉永3年)〜1905年(明治38年)享年56歳。
金沢市木ノ新保五番丁(現、少将町 6-23)
真宗大谷派北方山常福寺十二世住職致風の三男として生まれ、
石川舜台らに学び、同寺十四世住職となる。
幼名:祐必、
名:蒙、字:心泉、
号:月荘、別に小雨・雲迸(うんぼう)、
文字禅室主人・聴泉閣主人・憶松閣主人、酒肉和尚などと号した。
■清国布教師として東本願寺から清国に派遣、
明治10年から延べ十年間に渡り、中国本土で布教活動に従事された。
その間、兪曲園・胡鉄梅、他多くの文人と交流を深め、
仏教を初め書道、碑学・帖学を悉く学ばれ、多くの資料を日本にもたらし、
近世書道第一流の名手とうたわれた。
■最近(2001年5月19日)、同寺常福寺の多目的ホール2階部分に「心泉記念館」が開設され、
北方心泉が収集した蔵品などが展示されているという。いつか訪ねてみたい。
□文献:「氷見春秋」第45号:上田北山氏(城端町)
□参考:
金沢百万石ロータリークラブ・
卯辰山のいしぶみ(碑)
■現在、窪の新川にはJRの鉄橋を含め、多くの橋が架かっている。
しかし、昔は八幡橋・新川橋のみで、馬車や木炭車しか通らず、粗末なものだったと記憶している。
最近は、川幅や道路の拡張工事に合わせ、随分と立派になった。